2008年11月02日

落涙

「じゃあ、貴方は遊戯室にこれだけの設定をしていたのね?」
夕方六時を過ぎた職員室には、まだ半数以上の職員が残っていた。
水上は犬飼の席の隣に椅子を持ってきて座り、状況の整理を進める。
「別に責めているわけではないのよ。今回の失敗を生かして次に同じミスをしなければいいだけなんだから。そうでしょ?」
「…はい。」
犬飼は返事をしたが、その声に力はこもっていなかった。


「じゃあ、今この部屋の設定を振り返って、貴方はどう思うの?どこがいけなくてこうなったんだと思う?」
「…ステージのカーテンを、閉めておくべきでした。それに、遊具も、出し過ぎてる。ボールは出す必要が無かった、それから鉄棒とトランポリンは両方同時には見られない…。」
「…そうね、今貴方が言った通りだと私も思うわ。少なくとも私なら、この環境をそのまま引き継いだら、真っ先にトランポリンを片付ける。あれには絶対に大人が一人付きっきりにならないと危険だもの。」

「………。」
「夏休みに私と組んだ時、遊戯室で遊んだでしょう?あの時私はたくさんの遊具を出したけど、でも私と貴方で見ていたのは、たったの二箇所だけだった。飛び箱と平均台さえ見ていれば、マットで前転でも子どもが始めない限り、せいぜい危険は走って転ぶくらいだもの。そういう流れになるように、子どもの動きを予測して環境を構成したってことは、あの時話したわね。」
「…ハイ。」
「今日の構成だと、トランポリンのルールや危険を知らない子どもが対象な以上、一度に二人以上乗らないかとか、間違って周りの鉄の部分に落ちないかとか、しっかり見ている必要があった。それに加えて、鉄棒の接続部分で指を挟まないかとか、問題の大きなマットが危険な使い方をされていないかとか、この構成だと配慮するべき場所が多すぎるのよ。だからまず、この構成が今回の原因の一つだったと私は思うわ。」
見られると思っていた…そう言おうと思ったが、実際にあの状況では不可能だったことを思い出して犬飼は口をつぐんだ。


「それで、貴方は遊戯室のどこにいたの?」
「裕也君が、万太郎君とボールの取り合いをして、ステージのところで万太郎君が泣いていたから、話を聞きに行きました。」
「それから?」
「裕也君を呼んだけど、マットのところに逃げていって来なかったから、万太郎君をとりあえず抱きかかえて行って、マットの近くで裕也君も呼んで、話をしました。」
「裕也君は聞いた?」
「…何とか…。でもその話をしている間に、他の子達がマットを半分に折って、中に友達を入れて遊びだしてしまいました。」

「それで貴方どうしたの?」
「三回注意をして、それでも状況が変わらなかったから、二人に話をするのを切り上げて、止めに行きました。」
「何て言って注意した?」
「危ないよって、息ができなくなることがあるから止めなさいって、言いました。」
「言っても止めなかったのよね。どうしたの?」
「とにかく畳まれてたマットを広げて、危ないことを伝えたけど、…でも裕也君や勝喜君が相変わらずそれで遊び続けて…これじゃ埒が明かないと思って、マットを片付けようとしました。」
「じゃ、裕也君もそれに加わってたんだ。」
「…はい。僕の話が終わったから…。それで、仕舞おうと思ったけど、二人がマットの上からどかなくて、もうこれは遊戯室で話をするのは無理だと判断して、全員に一旦部屋から出るように言いました。」
「…。」

「部屋の入り口のところで話をしようと思ったけど、みんな保育室まで走って行ってしまって、僕が遊戯室から全員出てきたのを確かめて、鍵を掛けた頃には、部屋のおもちゃで遊んでいました。」
「ちょっと待って、何でみんな入り口で待っていないで、勝手におもちゃを出して遊んでたの?」
「……僕が、とにかく出て行ってとしか言わなかったから、皆、ああじゃあ部屋で遊べばいいやって思ったみたいで…。僕も、そこまで気が回らなかったし、裕也君が最後まで遊戯室から出ようとしないで遊んでいたから、そっちまで見られなくて…。」


「なるほど、分かった。その点については、犬飼先生の見通しが甘かったってことよね。で、今改めて振り返ってみて、マットについてどうしたら良かったと思う?」
「……そもそも、今日のメンバーで遊戯室に行ったのが間違いでした。」
「それは違うわ。貴方、自分の失敗を子ども達のせいにしてる。人数が多かったから出来ませんって言って、クラスを持った時に何もしないで子ども達を返しちゃう気?」
「それは………。」
その通りだった。たかだか13人を見られないで、幼児数30人のクラス担任が出来るわけがない。
「私なら、最初にマットを折りたたんだ時点で、そこに自分が行って注意をするわ。最初の段階で止めなかったから、どんどん子ども達も興奮して、やることがエスカレートしていって、結局止められなくなってしまったんじゃないの?」
「………。」
「裕也君に話をすることも大事だったけど、そこは彼に、ちょっと危ないことをしている子を注意してくるから待っていてと話すべきだったと思うわ。」
「…ハイ……。」


それで、部屋に戻ってからはみんな話を聞けた?」
「……。当事者を全員集めて、話をしようとしました。けど、やっぱり僕じゃ駄目で…後は、水上先生がご覧になった通りです。」
あの時犬飼は、以前水上に教わったとおり、問題になった子だけに話をするのではなく、周りの子も巻き込んで話をしようとした。だが当事者の子ども達がふざけるたびに話が途切れてしまい、長引く話に飽きた子ども達が部屋から飛び出して騒ぎ始め、その騒ぎを聞きつけた水上が保育室に様子を見に駆けつけたのだった。

「じゃあ今度は私の話し方について聞くけど、自分の話し方と比べてどう思った?何が違ったかしら?」
「……。」
違いは明白だった。犬飼の前ではふざけて、隙あらば走り回ろうとしていた裕也や勝喜も、水上が話す時は曲がりなりに聞けていたのだ。…だが、犬飼には二人の話し方にそれほどの違いがあるとは思えなかった。

これまでに培ってきた子どもとの関係だろうか?勝喜は確か前年度、水上がクラス担任をしていたはずだ。子ども達に舐められているか認められているかの違いだろうか?だとしたら自分の普段の子どもへの接し方そのものを変えなければいけない。それとも声のトーン、目線の配り方、話の構成、呼吸の置き方…考えれば考えるほど分からない。だが、ここで分かりませんと言ってはいけない気がした。
「……短く、まとめようとしていました。僕が話す時は、どうしても長くなって、要領を得なくて、伝わりにくくなってしまう…。」
「私の話、短くまとめてあった?」
意外だというように、水上は犬飼の顔を見た。犬飼は既に水上の顔を直視できず、視線を斜めにそらした。

「今日私が意識したのは、いきなり問題の核心に迫らないってことよ。私だって、あの子達がまともに言っても話を聞こうとしないのは知ってる。だから、いきなりマットで友達を挟むのは危ないって言うんじゃなくて、まず全員に、最初何をしていたのかを聞いたでしょう?」
合わせられずにそらしていた視線を、水上のほうに向けた。予想していなかった答えが返ってきた時に、犬飼がやる動きの一つだ。あの切り出し方は、水上自身が状況を把握するための質問だとばかり思っていたのだ。

「それを全員で振り返って思い出すことで、何故今先生が話をしているかよく分かっていない子も話に付いていくことが出来るし、子ども達が聞かないといけないって思う準備期間になる。貴方のやった、いきなり駄目だったことを切り出すやり方だと、裕也君や勝喜君は怒られるのが分かってるんだから、間違いなく逃げようとするでしょう?それに、そうやって話を聞くための雰囲気を作って初めて、この前言っていたことができるようになるのよ。」
この前というのは、いけないことをした子にそれを伝えるための方法のことだ。保育者と子どもが一対一になって話をするのではなく、集団に向けて話をすることで、他の子どもも悪いことに気付いたり、それについて友達に注意したり出来る力を付けるきっかけになる。

「実際にあの時、練菜ちゃんは裕也君や勝喜君がふざけてたら注意してたでしょう。それからマットについても、私は子ども達に、どうやって使ったらいいか、使い方のルールをまず聞いたでしょう?一方的に駄目の一点張りじゃあ、子ども達もどうしていけないのか気付けずに納得しないわ。けれどああやって話の流れを示してあげた後だったら、貴方の伝えたかったことも、きっと子ども達に伝わったはずよ。…それと、貴方もちゃんとあの場面で、私の話を聞かないといけなかったのよ。どうして勝喜君が話しかけてきたとき、今は話を聞く時間だよって注意しなかったの?それも雰囲気を作り上げるために大切なことよ。」
再び犬飼は目を伏せた。あの場面で、確かに自分は勝喜に注意をするべきだった。何故、関係ない話をしてきた勝喜に対して、勝喜の話が終わってから言おうと思ったのか。少し考えれば分かることだったはずだ。


「……預かり保育が大変なのは良く分かってるわ。クラスを運営していく訳じゃない、設定保育を用意して進めればいいって訳じゃない、しかも毎日メンバーが入れ替わるし、この世界に足を踏み入れて一年目の貴方がここまでやってるって、正直言って凄い事よ。裕也君が今日来ることは、彼が保育後に部屋に来た時まで分からなかったんでしょう?それでなくとも、年少から年長までの異年齢が同じ部屋で二時間過ごして、発達段階もそれぞれ違うし…。」
言い過ぎたと思ったのだろうか、水上は犬飼の机の上に置かれていたその日の預かり保育日報に目を向けて話題を切り替えた。
「毎日の日誌だって、よく書いてるじゃない。ただ、貴方がした保育の内容については毎日様々な反省がしてあるけど、子ども達がどうしたいのかとか、どんな遊びをしていてそれをどう発展させたがっているのかとか、そういう子どもの思いがあまり書かれていないのは気になるわね。」

ハッとした。工藤が言っていたのと同じことを水上は言っている。工藤の言葉が犬飼の脳裏で再生される。
(貴方は、子どもにこうなって欲しいっていう自分の思いが強すぎるのよ。クラスを持てば、毎日何十人っていう子に目を配らないといけないのよ?その一人一人と毎日戦い続けるつもり?それは必要なことだけど、でも、そればっかりじゃ犬飼先生は子ども達に嫌われてしまうわ。毎日毎日、些細なことで全員と戦っていたら、いつか本当に犬飼先生が子ども達と戦いたい課題にぶつかった時、子ども達は戦ってくれなくなるわよ?手を抜きなさい。肩の力を抜きなさい。そして、もっと子どもと遊ぶことを楽しみなさい。そうじゃなきゃ、この先辛くなるわよ。)
工藤の言葉が、犬飼の胸を締め付けた。工藤の言葉が、自分があの日取った判断が、心に突き刺さる。

「子ども達一人一人について、日報とは別に記録を取りなさい。細かく書き過ぎると大変だから、無理のない範囲でいいのよ。その子が一日何をして遊んだか、何色が好きか、誰と遊んだか、誰の名前が出たか、何を話したか、何でもいいわ。記録しておくの。一週間続ければ、きっと何か見えてくるはずよ。」
働き始めてから毎日書き続けていた保育メモを、採用試験を言い訳に三ヶ月以上書いていなかったことを、犬飼は思い出した。
「それは決して、貴方一人で考えないといけないことではないわ。各クラスの担任は、少なくとも貴方より、担当している子どものことを良く知っているはずよ。子ども達が好きなこと、日誌を通して聞けばいいのよ。そのためにクラス担任が毎日の日報を閲覧しているんだから。………本当に、こんなメンバーでよくやっているわ。」
日報の参加者名の欄を見て、水上は言った。それが止めだったようだ。犬飼はこれ以上堪え切れなくなり、席を立って部屋を出て行った。

「……すみません、ちょっと失礼します。」
明かりが消えて薄暗くなった廊下を通り、職員用トイレを素通りして、犬飼は園舎の奥へと早歩きで進んでいった。
「どうした?」
職員室から、園長が水上に質問する声が聞こえた。しまったと思ったが、今更後戻りは出来ない。廊下の角を曲がり、保育室を4つ通り越し、年長の昇降口に辿り着いた。
そして犬飼は壁際に座り込み、声を殺して涙を流した。

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posted by 犬飼陽介 at 01:46| Comment(31) | TrackBack(0) | 一年目 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月09日

唱歌

18日目、午前十時半。
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posted by 犬飼陽介 at 03:05| Comment(14) | TrackBack(2) | 遊戯 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月28日

警戒

3日目、午後四時半。
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どんな色がすき

坂田修  作詞・作曲
木村充子 編曲

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posted by 犬飼陽介 at 01:03| Comment(2) | TrackBack(0) | 覚書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月21日

8日目、午前八時五十五分。
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2007年05月13日

鼻血

13日目、午後二時半。
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posted by 犬飼陽介 at 19:07| Comment(2) | TrackBack(0) | 失敗 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

注意

このブログは一部フィクションです。
登場人物や出てくる地名は割と仮名だったりします。
posted by 犬飼陽介 at 15:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 私言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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